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章宗 (金)[しょうそう]
章宗(しょうそう)は、金の第6代皇帝。女真名は麻達葛(マダガ)、漢名は璟(けい)。 == 生涯 == 大定8年(1168年)、世宗の嫡男でその皇太子であった胡土瓦(允恭)の子として生まれる。胡土瓦は本来なら皇帝となるはずだったが早世したため、孫に当たる麻達葛が祖父から指名されて皇太孫となった。大定29年(1189年)に世宗の死後により皇位を継ぎ、明昌の治と称される政治を行なった。礼制や法典・格式をはじめとして科挙、官制などの体制整備や常平倉の設置など積極的な行政改革を行った。これによって金は中国王朝としての姿を完成させることになった。また、その治世において、金の文化は最高潮に達したといわれる。章宗自身も文人との親交を楽しみ、詩文、書画に凝った。北宋の徽宗の書「痩金体」を模倣した書を多く遺している。ただし、これらにより国内には華美な風潮が広まって財政を逼迫させた。 章宗の治世は金の衰退が兆した時代でもあった。周辺の属国の離反が起こるだけではなく、隣国の侵攻を受けることになった。ことにモンゴルの勃興は、金の将来に決定的な意味を持つ出来事であった。ただし、章宗時代における外敵の侵攻は全て撃退されている。 また、父親譲りの温厚な人柄として知られる一方で、伯父の并王實魯剌(永中)とは仲が険悪だったために、明昌5年(1194年)に謀反を起こしたという口実をもって并王とその子の神徒門・阿離哈懣(章宗の従兄)兄弟を逮捕して、投獄した。やがて信頼する叔父の衛王果縄の諫言にも耳を傾けず、并王一家を処刑して晒しものにしたという。 泰和9年(1208年)に崩御した。享年41。6人の皇子が夭折していたために世子がなく、仲が良く同年代だった叔父の果縄(衛紹王)が皇位を継いだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「章宗 (金)」の詳細全文を読む
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